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バリ北部 弾丸でいろいろ回ってきました。その4

2010年5月21日

バリ北部 弾丸で回ってきました。その4

その4、マルガ英雄墓地~グスティ・グラライ将軍~

グスティ・グラライ、彼の名前は現在バリの国際空港の名前になっていたいたり
空港の近くには彼の記念碑が建てられていたりします。

どのような方なのでしょうか?

私が知っていたのはオランダからの独立戦争でリーダーとなって戦った英雄。
そしてインドネシアの5万ルピア札(青いお札)にプリントされている方です。
ちょっと調べてみました。

1602年以降、オランダはインドネシアの東ティモール以外の領土を約350年に渡って支配
していました。100以上ある部族を敵対するように仕向け、統一言語がうまれると反発が
起こるので道端で3人以上が話をしていると罰するという徹底した支配を行っていたよう
です。大東亜戦争が始まりインドネシアに日本軍が入ってきました。
そしてたった9日間でオランダ軍は完敗しました。それ以降、3年半インドネシアは
日本の支配下にありました。今までのオランダ政策とは違い日本はインドネシア語の
言語を認めたり国の機関でインドネシア人を雇用したり積極的に新しい政策を行った
ようです。1945年に日本は敗戦を迎えました。今度はイギリスとオランダがインドネシアを支配する為に入ってきました。
そしてグラライさん率いる部隊(96人)はバリで8ヶ月間のゲリラ戦を戦い抜いた時に
物資や武器を使い果たしてしまい、タバナンにあるマルガに戻ったところオランダ軍に
遭遇。勝ち目の無い戦いに降伏勧告が出されましたがそれを拒絶し全員が亡くなるまで
戦い続けました。その時に亡くなられた96名+1276名のバリで戦った兵士達のお墓が
残っているのです。第二次世界大戦後も残り、バリの人々とともに独立戦争に参加した
日本人の墓も11基含まれます。
インドネシア全体ですと実に2000人以上もの兵士が残って独立戦争に参加したと
言われています。
ちょっと長くなってしまいましたが、私の書いた文章は話の一部でしかないと思います。
戦争を知らずに私は生まれてきています。間違っても戦争自体を肯定するつもりは
ありません。今、同じ時間をこの地球上で生きている他の国では当たり前に
戦争が起きていたりします。なんなんでしょう?このもどかしい気持ち。
なんて文章にしたら良いか分かりません、、、。

     
     
     

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